芳賀種義(文久1〜昭和14/1861〜1939) 第2代八幡村長。八幡への製鉄所誘致に尽力。 芳賀家は築上郡城井城主・宇都宮家の家老の家で、城主が中津城主の黒田に攻め滅ぼされ浪々の果てに八幡に落ち着いて庄屋をやってきた家柄です。 八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光における庄屋として勢力をなしました。 そして明治26(1893)年第2代八幡村長となったのが芳賀種義です。その後6年間村長を務めました。 芳賀種義は文久1(1861)年9月28日、八幡村枝光の大庄屋、芳賀與八郎の長男として生まれました。與八郎は高崎正三郎の次男で芳賀家の養子。 若松町長など約30年間、公職にありました。 種義も若い時から若松町戸長、八幡村議会議員、郡議会議員などを歴任。八幡村長だった34歳の時に官営八幡製鉄所誘致に奮闘しました。 彼の努力なしに八幡は発展し得なかったでしょう。 明治30(1897)年2月6日農商務省の告示があり、いよいよ八幡村に東洋一の製鉄所が建つこととなります。けれども最初に予定していた敷地面積10万坪を 30万坪に拡げたことから土地所有者や村民は猛反対を唱えだし、ついには村長殺害計画まで行われました。 しかし種義は「国家的事業の利害と八幡百年の大計」を語り、八幡へ製鉄所を迎えることを諦めず、村民を説得してまわったそうです。 種義は製鉄所誘致のために私財のほとんどを使い果たして尽力しました。 その後は市議、県議を各一期務め、代議士にも打って出ましたが落選。製鉄所誘致の功労で中井製鉄所長官から譲り受けた若松市連歌浜の埋め立て工事は、 若松の岡部亭蔵に下請けさせているうちに、甘い汁はみな吸われてうまくいかず、昭和14(1939)年77歳でその生涯を閉じました。 昭和32(1957)年に戦災復興による公園事業の一環として開演した八幡東区にある高炉台公園には、大隈重信の感謝状が刻まれた鉄塊と共に「芳賀種義翁之碑」 が建てられています。
参考文献 『八幡市をめぐる人物と事業 複写版』 中井倭人編/九州合同通信社/1928(八幡図書館にて複製) 『ふるさと人物記』 ふるさと人物記刊行会編/夕刊フクニチ新聞社/1956 『八幡むかしむかしむかし』 北九州市立八幡小学校創立百周年記念事業後援会編/北九州市立八幡小学校創立百周年記念事業後援会/1988 『海峡の風』轟良子文/北九州市芸術文化振興財団/2009