守田道隆(明治31〜昭和45/1898〜1970) 初代八幡市長。 鳥取県気高郡大和村に生まれました。 守田は京都帝国大学工学部土木科を出て大正14(1925)年東京市役所に入り、昭和4(1929)年から八幡市土木課長として八幡市役所に勤めます。 昭和14(1939)年11月一時長野県へ転じましたが、八幡市役所時代の縁故で昭和17(1942)年5月また八幡に来て製鉄所に入社、土木部長となります。 戦後の昭和22(1947)年4月製鉄所土木部長から初の公選市長選挙に打って出て、製鉄マンの圧倒的支持を受け、対立候補を大差で破り八幡市初の 公選市長となります。引き続き二期は無競争、三期は郷土出身の対立候補を一蹴する独走ぶりでした。三期12年間在任しました。 守田は第二次世界大戦で中心地域がほとんど焼け野原となった八幡市の復興に尽力しました。八幡駅周辺を行政の中心にしようと図書館、市民会館、 市立病院を建設、さらに市役所も移転しようとしましたがそれは実現できませんでした。樹木を植え、ロータリーに恒久の平和を象徴した子供を抱いた 女神像が設置されたのも守田の計らいでありました。 教育復興に意を注ぎ、学校の再建と並行して社会教育の振興を重視しました。国内の教育の歴史から、学校教育のみが重視されて国民教育の支柱となる 社会教育が軽視されていた事を憂い、社会教育の中心ともいうべき公民館の存在に重きを置きました。守田の公民館建設計画は後に「八幡公民館体制」 と称され、公民館建設計画の理想的な典型とされました。全国公民館関係者に多大な影響を与え、「公民館のメッカ」と称賛されました。 頭が切れて活動的。市政の上で一番悩みの財政面では、大工場をひかえ製鉄だけでも黙っていても年間2億円(当時)の固定資産税が入りました。 その資金で全国でも有数な戦災都市の復興に、お手のものの土木行政を発揮します。 守田はまた、全市民を対象とする国民健康保険を活用して大市立病院を創り上げました。この実績で全国国保副会長、戦災都市連盟の理事等で全国でも 広く顔が通っていました。 昭和27(1952)年には市長在勤のままアメリカへ行き、昭和29(1954)年夏には訪独県民少年団長として渡独し、国外の見聞も大いにひろめて来ます。 新婚旅行は富士登山だったというほど山登りが好きでワンダーフォーゲル(渡り鳥運動)を支持し、訪独少年団長としてはワンダーフォーゲル発祥の 地ドイツで、実地に運動を見学して『少年渡り鳥の旅』(八幡図書館所蔵)という訪独報告を兼ねた本も出版しました。 昭和45(1970)年に72歳で永眠され、その2年後の昭和47(1972)年、彼をしのぶ多数の賛同者により、皿倉山ケーブル山麓駅の公園内に、銅像が建立 されました。碑文には守田が成し遂げた八幡市への功績を讃える文章が刻まれています。
参考文献 『ふるさと人物記』 ふるさと人物記刊行会編/夕刊フクニチ新聞社/1956 『鉄都人物記』 野上辰男編/民友新聞社/1957 『福岡県百科事典 下』 西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部編/西日本新聞社/1982 『紙芝居ヨーコーロ』 太田和則著/1999 「国会会議録検索システム」(http://kokkai.ndl.go.jp/)より