田中熊吉(明治6〜昭和47/1873〜1972) 八幡製鉄所初代宿老・「高炉の神様」 八幡製鉄所の「高炉の神様」として田中は知られています。高炉内を覗き穴から見て灼熱の鉄の温度をピタリと当てるから神様のようで、 「宿老」として崇められていました。ドイツでは溶鉱炉の事を「背の高いストーブ」の意で高炉と呼んでおり、日本でもそう呼ばれていま した。田中は死ぬまで職工として溶鉱炉で鉄づくりをする事を望みました。宿老という職制は、監督抜擢を辞退して一生職工でいたいという 田中の希望を製鉄所側が受け入れ、当時の長官の配慮でつくられたものです。 田中熊吉(当時は松永姓)は明治6(1873)年11月22日、佐賀県三養基郡南茂安村にて、農家の三男として生まれました。実家はわずかな田畑を 持ち、もっぱら地主に使われる自作兼小作農でした。しかし明治17(1884)年、村内屈指の地主である田中夫妻の養子に迎えられ、「田中熊吉」 となりました。母タマは息子が地主の家へ入ることを「出世」と考えており、彼女のかねてよりの念願でした。 そんな母の思いとは裏腹に田中は小学3年生の頃、新任の校長が持っていたヨーロッパ製の懐中時計に人一倍興味を示し、「百姓にはならんぞ。 機械をつくる工場で働きたい。」とひそかに決心します。 明治32(1899)年から八幡製鉄所へ通い、明治34(1901)年に高炉職に採用されました。そして同年2月5日午前11時、八幡製鉄所の東田第一高炉 に火が入りました。 高炉操業はドイツ人の主任技師・職工長と課長の他14名の監督員、及び定夫という名の未経験高炉職19名、さらに岩手県の釜石製鉄所からの経験工 9名で第一歩を踏み出しました。高炉の不調が続いたり、ドイツ人技師が度々騒ぎを起こしたりと作業は難航。田中はドイツ人技師らに反論を許され ない工員達の憤りをなだめながらも自身は厳しい指導に謙虚に耳を傾け、また若い監督から絶えず操業理論の指導を受けて次第に上司や同僚の信頼を 得るようになります。 大正元(1912)年から田中はドイツのオーバーハウゼン製鉄所へ出張し、八幡製鉄所の設備を大型化するための技術を習得しました。 帰国後、八幡製鉄所以外にも多くの要請に応じて北海道・広島・朝鮮兼二浦・小倉等の火入れや操業指導に携わりました。 大正9(1920)年八幡製鉄所で労働条件の改善を求める大ストライキが発生し、生産ラインが全面的に休止してしまいました。日本労友会会長浅原健三 率いる群衆が操業中の溶鉱炉へ押しかけてきましたが、溶鉱炉には歯が立たず投石で付属物を破壊し引き揚げていきました。その後田中はわずかに残った 職工達を指揮して保全操業に入りました。製鉄所が宿老制度を創設して田中を第一号にしたのは、この時高炉を守った功績によるものと言われています。 昭和47(1972)年5月8日、田中は入院中の八幡製鉄所附属病院で呼吸困難のため亡くなりました。享年98歳。 宿老制度は大正9(1920)年田中が任命されて後、6名が任命されていました。しかし昭和43(1968)年までに田中以外の宿老は皆亡くなっており、八幡 製鉄所の宿老制度は田中熊吉の死で幕を閉じました。
参考文献 『八幡製鐵所五十年誌』 八幡製鐵所編/八幡製鐵株式会社八幡製鐵所/1950 『福岡県百科事典 下』 西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部編/西日本新聞社/1982 『鉄都人物記』 野上辰男編/民友新聞社/1957 『高炉の神様 宿老・田中熊吉伝』 佐木隆三著/文藝春秋/2007 『紙芝居ヨーコーロ』 太田和則著/1999 『高炉物語』 中村直人著/アグネ技術センター/1999 『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』 金子毅著/草風館/2003